Chiacchirata(雑記ノート)
イタリア以外のあれこれ 2
INDEX
1:ザグレブで飲んだホットワイン 2:クラヴァト(ネクタイ)とクラバッテ
3: 9/26 トカイのワイン イン ハンガリー
4: 10/10 ハンガリーの田舎生活 5: 10/2 ハンガリーの食生活など
6: ブダ・ペスト 7: 8月11日 温泉
木枯らしの吹く戸外でのこと・・・・ .
ザグレブで飲んだホットワイン
は身も心もあったまる飲み物でした。
旧ユーゴスラビアのクロアチア州の首都ザグレブです。以前一度出てきたお気に入りのまちです。画像は冬ではありませんが、
冬は雪も降りますし新潟のようにけっこうさむいです。 その昔、クリスマスに来た時のこと、近所の方からスキー場に行かないかって
誘われたことがありました。 残念ながらそのときは行かなかったんですけど。
その寒い街を彼女とよく散歩した時に薦められた飲み物がホットワインでした。寒い外で飲むホットワインはほんとに美味しく
感じたものです。 だからといって、夏に飲んでもきっと美味しくは無いのです。やっぱり冬ののみものなんですね。
さてヨーロッパでは冬場アルコールドリンクを温めて飲むことがしばしばありました。スウェーデンの知人が薦めてくれたのは
アイリッシュコーヒーでした。 実は、これがアイリッシュコーヒーとの最初の出会いっだったんですよね。
後年よく飲むことになるんですが・・・・
なぜかスェーデンで・・・・・世界中を探せば温かいアルコールドリンクスのいろいろが・・・・・
ビールを使ったり、リンゴ酒(シードル)を使ったものなどいろいろあるんでしょうが、やっぱりワインかな・・・・
ユーゴでは英語を使うことが多くてホットワインと呼んでいましたが実は、正しくは「マルド・ワイン mulled wine」って言うんです。
更に、フランス語では「ヴァン・ショー vin chaud」、ドイツでは「Gluhwein、グリューヴァイン」ってね!
さて当店ではこんな感じで提供します。
ホットワイン およそ200ccで ¥700
温かいカクテルってお考えください。その材料は
赤ワインにクローブス、シナモンステックで香りをつけながら温めます。上がりに柑橘系のフルーツで香り付けして
仕上げます。温度が大事で決して沸騰させてはいけません。
寒いこの時期是非ともお勧めしたい飲み物です。
クラヴァト(ネクタイ)とクラバッテ
その起源はいったい どこなんでしょうか?
イタリア語ではCravatteクラバッテ(ネクタイ)と呼びます。近年日本ではナポリ発のブランド Ulturare Cravatte
ウルトラーレ・クラバッテがその品質の高さで一部の人たちの間で広がっているようです。
でも起源はイタリアではありません。 実はネクタイに関してヨーロッパでは各国によりさまざまな表記がなされており
CravateとかKrawatteとかCorvata、Cravatなどと様々なんです。
しかし、その起源を探るとどうやら クロアト「Croatクロアチア人」が基にあると
伺えます。しかし遅れて入ったイギリスでは Necktieネクタイ(首をしめる)
なんてなんとも彩りのない言葉になった国もあるようです。という訳で・・・
もうお分かりですね 実はその起源はクロアチアなんです。 何でも17世紀ごろ?の戦争に行く自分の夫や恋人が無事に帰ってくるよう
女性たちが願いを込めて首に巻いたのが始まりなんだとか。当時のバルカン半島の政治状況を考えるとなんとなく納得してしまいます。
なぜってバルカンって歴史上何度も様々な国に支配を受け続けてきましたから・・・・
女性たちは「何とか無事に帰ってきてほしい」との強い思いを込めずにいられなかったのでしょう。
僕が思うにはもともとは今自分たちコックさんたちが付けているようなものだったのではないでしょうか?
その後、初期の目的と離れ権威やフォーマルを表すようになって行きました。
ところで最近都会のファッションに敏感な一部の世代の間で「センツァ・クラバッテ」
なる言葉が使われるようになりどういう意味ですか?なんて声がWeb上できかれます。
これはイタリア語Senza cravatte(Without necktie)
のことで直訳すれば「ネクタイなし」ってことになります。イタリアでは普段は「センツァ・クラバッテ(ネクタイなし)」でも
フォーマルな場面をクリアーすることが出来ます。私自身もほとんどネクタイをした記憶がイタリアではありません。
ワイシャツは白でもカラーでも良く少し胸元を広げます。要はスーツとワイシャツのコンビのセンスがよければネクタイは必要ないのです。
その裏にはやはりイタリアの夏の暑さがあります。とてもネクタイをしたまま仕事をするなんて彼らの頭にはないようです。むしろしていると逆に「何で
この暑いのにネクタイなんてしているの?」なんて聞かれてしまいます。給料や値上げ交渉のときは確かに必要のようですが普段はイタリアはやはり
ネクタイで首を絞めるのではなく開襟のほうがイタリア人には性格的にも合っているように僕個人は思いますけど。
さてクロアチアの首都ザグレブにはクラヴァト作りの総本山ポトマック社があります。この街は僕の大好きな街なんです。
ザグレブの街
実はクロアチアと日本とは少なからずかなり以前から文化交流などを通じてかかわりがありました。事実僕自身が尋ねたユウゴスラビアの時代から
交流があったのをこの目で見ていますので間違い御座いません。たとえば日本の囲碁なんかは結構人気があったのですよ。またあるときは
町の広場で日本から文化交流の使節団が来ていて笛や太鼓で広場に人だかりが出来ていたこともありましたし、僕の友人なんか俳句に関する知識なんか
ぼくいじょうでしたね。最も僕自身俳句に関する知識なんて高校で習った程度ですからしれてますけど。
更に近年ではネクタイの素材としては最もふさわしいのがシルクだと思いますが・・・そこで、養蚕の技術が日本からクロアチアに移転されているようですよ。
日韓開催ワールドカップの時新潟がクロアチアの選手のキャンプ地でもありましたね。
(1): 9/26 トカイのワイン イン ハンガリー
さて先週に続いて今週はマジャール人の国ハンガリーに飛んで
貴腐ワインの名産地トカイでしたね。
トカイではフランスより早く貴腐ワインが造られルイ14世が「ワインの中の王」「王様のワイン」と絶賛してこよなく愛した
のだとか。トカイはハンガリーの北東部にあり山地が終わって大平原に変わる境目に当たり、更に二本の河の合流地点にあります。
この地形が多湿な局所気候を起こし貴腐葡萄を作るカビが育ち易い理由になっているらしい。この辺の理由はドイツモーゼルの地形と
似ているような気がします。
実は皆さんご存知の様に「鉄のカーテン」が崩壊して旧東ヨーロッパ諸国の経済状況は大きく変わり私の知っている頃と様変わりしている
らしいです。このトカイにも日本の資本サントリーが入りワイナリーの経営に参加しているそうです。そのほかスペインの大資本も参入
しているし。このトカイは世界遺産にもなっているのでその名前と技術が欲しいということだろうと思います。
有名なのはトカイ・アスー・6プットそして更に私も見たこともありませんが貴重な貴腐葡萄100%で造られたエッセンシアと言うのが
あるらしく、今では一本200ユーロもするそうです。
(ワイン倉の内部)
このプットと言う数字が大きくなるとお値段も上がるのですがまだ旧共産国だった頃など5プットですら町の店頭でみかけること
はなくトカイまで買いに行ったことがありました。と言うのは当時高級品は何でも外貨獲得のため輸出に回されていたのだと思います。
ハンガリーってブダペストなどの大都市から一旦離れるとホントに牧歌的というか田舎というか見渡す限り畑ばっかりになってしまいます。
トカイもまさにそんな中にあるわけです。そしてここでもうひとつ、ハンガリーのトカイに接しているチェコの
トカイも又ワインの産地らしいのです。でもハンガリーのトカイが余りにも有名になってしまってその影に隠れてしまっているということです。
そしてこちらのほうは交通のアクセスやら取り巻く状況が悪く失業率が高くて様々な軋轢を生じているらしいと・・・・
さて、ワインの話が出れば食べ物の話も必用でしょうから次はそんな話やらブダペストの話なんかもいいかも・・・・ではではまた・・・
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(2): 10/2 ハンガリーの食生活など
ハンガリーの食材、料理って なんていっても特産はパプリカ でしょうか。実際ハンガリー料理にはよくでてきます。
たいがいの場合粉末状にして料理に使います。これであれば輸出も容易にできますからね。いま自分が使っているものもハンガリーのもの
です。これ自体は辛くはないので辛味をつけるにはグリーンの丸い唐辛子をいれます。
こうして造る有名な料理がドナウ川で取れた鯉を使ったハラスレ(パプリカを使った鯉こく)です。日本ではまだあまり紹
されていませんが、現地ではとても一般的な料理です。お魚なら何でもいいようですが、サーモンなどはとても
高価らしく田舎で私が見たものは安価で用意に手に入る為かもっぱら日本で言うところのドイツゴイでした。
最初食べた時はとても辛くて閉口しましたね、ホントの話。でもこれが何回か食べてる
うちにちょと癖になりました。このスープに素朴なライ麦パンをひたしたりして食べるんです。
日本で多分最も良く知られているハンガリー料理は牛肉を使ったグーラッシュでしょうか、僕は上品なビーフシチューより好きかもしんない
ですね。これも当然のごとくパプリカをつかいます。
あとはフォアグラとかキャビアなんかもあったような記憶があります。地元の方が
ドナウ川でチョウザメを取ったのを見たこともありますしね。私もつりにいきましたが釣れるのは鯉くらいでしたね、いいところ。
なかなかいい形のドイツゴイがつれるんです。これが前記の鯉こく(ハラスレ)になるわけです。ハンガリーは海がないので魚と言えば淡水魚
となります。小さな子供に海の写真を見せると決まってドゥナ、ドゥナ(ドナウ川)と言います。親はあわてて「海だよ、海」って嗜め(たしな)ていました。
そりゃそうですよね、だってハンガリーには海なんてないんですから。地方に行くとレストランと言うか食堂と言うか特徴的なのは本当にライブ
演奏が多かったことですね。それは聞くところによると必ずしもプロではなくて昼間の仕事が終わってからアルバイトだったりしていたようです。
(ハンガリーのレストラン)
楽器も珍しいものがありました。何かオルガンの元祖のような。新しいところではエレクトーンなんて珍しいこともありましたけどね。
更に田舎に入ると上水道も各家庭にまだ入っていないところがあったりしてましたね。
・・その頃の一般の人の乗っている車は決まって東ドイツ製のトラバンと言われていたベニアで出来ている軽自動車でした。ひとたび事故
ろうものなら簡単に大破してしまいます。もちろん見た目にはベニアには見えないのですけどね。一度「買わないか?」って聞かれ
ましたが、即座に遠慮しましたね。都市を離れると 信じてもらえるかどうか、しれませんけどその当時、
車より馬車(貨物用)の方が多かったような気がします。これはホントに見たものしか分からないと思いますがある品物を調達
する為にとなりのオーストリアのウィーンに行ったその帰り、国境を越えると極端に明かりがなくなるのです。ハンガリーの夜は都会を除けば
ほとんど真っ暗な世界に変わるのです。あ〜これが共産国なんだってみように納得!!
そんなところでも暫くすると逆にだからこそいいところが見えてきたりしてこれが結構快適になってきたもんです。
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(3): 10/10 ハンガリーの田舎生活
家からドナウの川原に降りるとそこは広い森になっていて鹿やリス、ハリネズミなどが普通に生息していましたし、野生のりんごが生えていて
とてつもなく木が高く実がもぎ取れないなんてこともありましたきくらげなんかも普通にありましたが「きっと誰も取らないんだろう
な」と感心していました。更に進むと草はらに出て野生のプルーンがいっぱい実をつけていました。地元の方は木の下にシートを敷いて
木を蹴飛ばしたりして実を集め焼酎漬けにしていました。まあ日本で言うところの梅酒のようなものかもしれません。
ドナウ川画像
当時ハンガリー国内で作られている野菜の種類はとても少なくてかなり輸入に頼っていたとおもいます。出来るものは主に玉ねぎ
パプリカ、人参、ジャガイモ、ビートなんかで、な、キュウリ、白菜は貴重でしたね。ですから結構皆自家菜園をもっていたようです。
たいした期間しか居なかったので言葉もホントに必要最小限 数字や挨拶の言葉、有難う(ケセネンセーペン)などを中心に覚えましたが
今までのラタイン系言語(英語、ドイツ語、イタリア語)と違うスラブ系の言葉は当然ながらとっつきにくかったことが思い出されます。
ですが、今から考えるとせっかくのチャンスをとても残念に思います。そうそう共通点もありますよ。手紙を書くときは日本と同じように
例えば 吉田 太郎 と書きます。また住所も 新潟県 燕市 吉田のように表記、2006年10月2日と書きますので日本と一緒ですね!
といった訳で・・・・何はともあれ「すめば都」なんて、昔の人はホントにうまいことを言ったもんです。
さて、 次回はいよいよブダペストですよ乞うご期待!!
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(4): 10/23 4・ ブダ・ペスト
さてブダペストはというと流石に大都会です。人口は多分200万強といったところかな。非常に歴史と文化を感じる街です。
共産国ってだいたい西側のようにむやみな開発がなされなかったせいか建物の保存が良くホントにうつくしいのです。
先ずはその美しさの一部をごらんください。
国会議事堂です。ただただ美しいの一言です。
左は有名なライオン橋 右がその橋の遠景
イルミネーションが美しいブダペストの夜景です。
多分英雄広場だったと思います。
今は日本人学校があったりして結構日本人が居るようですが 当時はまず顔を合わすようなことは考えられなかったですよ。
まあ外交官とか、そうそう一人、私はまったく知りませんでしたが ハンガリーでは有名な日本人指揮者がおられましたね。
確か名前は小林研一郎(名前は横文字だったので当て字) さんだったとおもいます。多分ブダペストフィルハーモニーの
常任指揮者だったと思うのですが。ハンガリーの人はほとんど知っていましたよ。日本人と言えば彼の名でしたね。
そうそう最近では日本人プリマドンナが有名らしいです。名前は忘れましたが。先日彼女の特集があって見覚えのある
劇場が写っていてとても懐かしく思いました。その昔オペラを見に行くことになってあわててネクタイを買いに言ったことが
おかしくよみがえってきました。
日本との共通点がありました。それは温泉施設がたくさんあったこと。ひとつは温泉プールのように水着を着て混浴タイプのもの。
もうひとつは裸ではいるものもあります。この辺も日本と似ていますね。その施設は歴史あるところはなかなか
重厚な建物です。それもそのはずなにせ古代ローマの遺産なのですから。
(5): 8月11日 温泉
毎日うだるような暑さが続く今日この頃皆さんいかがおすごしでしょうか?くれぐれもお体をご自愛くださいますようおねがいいたします。
さてこんな暑い日には温泉でもゆっくりと入ってリフレッシュしたいものです。
昨年の10/23 4・ ブダ・ペストの続編をお送りしたいと思います。
その昔ローマ帝国はヨーロッパ各国及び中東を支配下において居ましたがその支配した地域に公共浴場施設を造りました。
そこは人々にとって体を休め清潔を保ち社交場としての重要な役割を持った場となりました。このことがまさにローマの戦略だったのです。自分たちが
支配した人達の中に不満分子を生まない為の。ありていに言えば「以前より俺たちが来てからの方が生活がよくなっただろう。」と言ったところかな。
例えば中東であればトルコの ヒエラポリス 。 彼らはここで浴場施設だけでなく下水道や公共トイレといったインフラ整備をおこなっています。
トイレといってもその遺跡からするとパルテノン神殿かと見まごうような大規模で壮麗な建築物なのです。またイングランドでは バース に
公共浴場が造られ、この地名が由来となった言葉が英語で習うBathバス(お風呂)なんだとか。結局造られた施設の数は900箇所とも
言われています。ご存知ローマの カラカラ浴場 などは1000人〜1500人(多分)もの人を収容できたとか聞きました。 とにかく凄いスケール
だったのです。 こんな歴史が分かると歴史有る浴場の施設が荘厳だとしても 納得していただけるかと思います。
ブタペストは昔の共産国のころとは違い今は世界中から観光客の集まる観光の街になっている
らしく、特に日本人ってほら、ホントに温泉好きですからとても人気なのだとか。
屋外の明るい施設などでは若い女の子なんかもいっぱい居てとても楽しい(当時は私も若かったので・・・)いろんな思いをいたしました。
ところで
私は市場が好きでブダペストに来ると市場に行っていました。ハンガリーで作られている作物の種類はパプリカ、玉ねぎ、ジャガイモ、にんじん、甜菜
などとても種類が少なく、きゅうり、ナス、白菜、カボチャ、フルーツ類などほとんどが輸入に頼っていましたのでとても楽しみだったのです。
例によって
あまり観光スポットは知らないのでごめんなさい。 日本との係わり合いを言うならF1も重要かもしれない。セナが
ホンダエンジン搭載のマシーンで優勝したのもハンガリーで、そして今シーズン、オールホンダで優勝したのもハンガリーGP。
エンジンサプライヤーとしてのホンダはホントに強かったのです。ヨーロッパではモータースポーツで優勝することは、とても尊敬を
受けるし、重く受け止められるんです。あらゆる分野の技術に対する尊敬の大きさはとてもとても日本の比ではないのです。
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